邪馬台国はどこか 邪馬台国ってどこにあったのかほぼ判明し

邪馬台国はどこか 邪馬台国ってどこにあったのかほぼ判明し。接客のお仕事の中で、邪馬台国の話があるかは分かりませんが、もし、私が床屋さんで、お客様から話がでた場合を想定して、回答したいと思います。邪馬台国って、どこにあったのかほぼ判明しているんですか 一説では九州北部とか近畿地方ともいわれているようですが、どうなのかなって 日本の古代史における偉大な女王が卑弥呼であり、治めていた国が邪馬台国になりますが

どうなのでしょう、すでにおおよそどこに邪馬台国が実在したか、すでに決着はほぼついているのでしょうか

それとも、どの説も地元に邪馬台国があったことにしたいとかで、議論が進んでなかったりしますかね

ぜひ皆様のご意見をお聞かせください 卑弥呼でおなじみ「邪馬台国」はどこにあった。が。その一方で。日本の歴史には。いまだ解明されていない謎が多数存在して
いるのも事実です。 その中でも。特に一般的邪馬台国がどこにあったのか
については不明で。今も議論が続いています。果たして最新説による

古代史最大の謎「邪馬台国の所在地論争」に歴女が少ない理由。邪馬台国はどこにあったのか――。だが。古代史研究の学界は旧態依然とした“
男社会”で。女性の視点がほぼ皆無だという。各媒体で人気の「連載コラム」の
著者に聞くシリーズ。第回は古代史の総合雑誌『季刊邪馬台国』梓書院で
連載中の「の書物を根拠に主張しているのが九州説の文献学派。その一方で
中国の文献である『魏志倭人伝』を根拠としているのが畿内説の邪馬台国は「99?9%」九州にあった。そこで編集部では。あえて「99?9%九州説」の立場から論争に
加わり。邪馬台国の謎に迫ってみた。今さら」と思われる方も多いかもしれ
ないが。日々。新たな学説や発見のニュースが流れるたびに。有力視される方向
は大きく変化している。九州説」の視点を柱に据え。「邪馬台国はどこにあっ
たのか」という長年決着のつかないまま現在にいたるこのテーマについて議論
したい。

邪馬台国近江説ー卑弥呼が眠る里/ごあいさつ。ここ守山市に邪馬台国が存在したという書籍『邪馬台国近江説』が出版されて
もうすでに3年が経過しました。始めました卑弥呼コンテストと地域活性化
フォーラムの開催は。守山市民の皆様に歴史と古代ロマンに胸ときめいて頂けて
いるその中で「近江説」とはどういうものなのかですが。「 邪馬台国やま
たいこく」がどこにあったのかについては。主伊勢神宮のルーツ自体が。
伊勢遺跡である可能性も十分考えられ。それまで弥生時代に 神殿様式しんで
んようしき邪馬台国はどこか。ヤマタイコク」の所在は近畿。九州説に限らず。北は東北地方から南は沖縄まで
。日本各地でその存在を主張しているのである。魏志倭人伝が全くの
フィクションだとは考え難いが。実際に魏の使者が邪馬台国に行ったかどうかも
疑わしいし。倭人からの伝聞致し。蟹沢古墳群馬県高崎市柴崎から出土
した「正始元年」の銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形がほぼ一致している
という。卑弥呼は。朝鮮にも卯=ウサギ顔の民の国にも。絶大な影響力が有
ったようです。

邪馬台国ってどこにあったのかほぼ判明しているんですかの画像。邪馬台国はどこにあった。その他にも真珠が採れることや。占いをしていることなど色々と特徴が書かれ
ています。 さて。話を戻します。邪馬台国はどこにあったのかを再び考えてみ
ます。 邪馬台国の場所については北部九州説と畿内説近畿地方邪馬台国の場所に新説。江戸時代から続く論争の中で。候補地として挙げられた場所はヶ所を超える
が。現在では大半の研究者が九州か畿内のどちらかを主張している。年に
奈良の纏向遺跡で大型の建物跡が発見されたことから畿内説がやや邪馬台国の場所が未だに分からない理由。嫁の脱衣姿を見た長女「お母さんがビローンってしたやつ付けてた!
今回は。なぜ邪馬台国に関する議論が未だに決着を見ないのか。知ったかぶり
できる程度にまとめてみようと思います。倭人は帯方郡の東南の大海の中に
あり。山島が集まってクニやムラを構成している。最初に登場する「対馬国」
というのは。地名から見て対馬島と見てほぼ間違い無いかと。どこかが間違っ
ている逆が本当に正しいと仮に判明したとして立場なくすだけだし。

接客のお仕事の中で、邪馬台国の話があるかは分かりませんが、もし、私が床屋さんで、お客様から話がでた場合を想定して、回答したいと思います。邪馬台国は何と読むのか、この国が有ったのか、無かったのかは分かっていません。だから、決着のつけようがないのです。「ヤマタイコク」は仮の言い方で、標準語になっています。邪馬台国の謎は素人が参加できるロマンの世界ですから、地元の古代史フアンは気持ちが盛りあがりますね。邪馬台国について詳しく考える人が100人いたとすると100人の邪馬台国の説明になると云われます。不明なものを、いくら議論しても、それが謎の解明の妨げになることは無いと思います。只、「卑弥呼」と云う女王が、1800年ほど前、何処かに居て、墓が何処かにあることは間違いないと思います。この場所が畿内の場合、宮内庁の関係から発掘が制限されているので、決着には先は長いようです。お客様:「そこの丘、前方後円墳で、邪馬台国の卑弥呼の墓じゃないの?」私:「卑弥呼の墓は約百mほどでしょうから、大きすぎる気がします。発掘調査しないのは、するだけの根拠がないのでしょうね? もし、卑弥呼の墓だったら日本中がえらい騒ぎになり、この町に一杯人が集まりますね? いっそ卑弥呼町にしてもらいましょうか?」ヤマイ国が乱れ、ヒミコを「立てたら」国が治まったとあります。民主主義ではないので「ヒミコを立てた」人物、つまり実力者がいたと考えなければなりません。ヒミコはあくまでも祈祷師であり王ではないのです。佐賀県の吉野ケ原遺跡のほど近くに規模の小さいヒミコの墓があります。遺体のそばにはきわめて珍しい宝石、イヤリングが置いてあり、その遺体を取り囲むように、銅鏡が粉々に砕かれた山が五か所に取り囲むように置いてあります。不思議ですよね。これは「魔封じ」なのです。魔力を持ったヒミコがよみがえって来ないように、当時は貴重品だった銅鏡を50枚ほど砕いて「魔封じ」を念じたのです。いかにヤマイ国の人達がヒミコを恐れていたかを物語って行ます。ヒミコそしてトヨの絶えた後、480年まで「倭の五王」の時代があります。五王の名は「讃?珍?済?興?武」と言い一文字でいかにも中国風の名前です。これらの王は中国の皇帝に貢物をおくり皇帝にひれ伏す外交でヤマイ国と同じです。つまりヤマイ国系の国は存続していたのです。しかしこれは大和朝廷のような独立精神を持つ国家などではありません。あくまでも地方の部族大連合国です。ヤマイ国は前方後円墳なんか作ってはいません。西暦600年直後に大和朝廷の聖徳太子が「日出る処の天子、日、没する処の天子にいたす???」あの有名な公文書が中国の皇帝宛てに送られていますね。中国様、様で生きてきたヤマイ国の五王時代からわずか130年ほどで自尊心の高い聖徳太子が現れるわけがないでしょう。大和朝廷は皆が言う「耶馬台国」を継承していません。近畿に脈々と別個に成立していた国家であります。「邪馬台国」は魏志倭人伝が書いた文字で、その邪馬台国への道程の説明を文字通りたどっていくと、南西諸島辺りの海上ということになってしまいます。それは、説明になんらかの間違いがあるということだ、と考えるのが普通の思考だと思うのですが、なぜか荒唐無稽な解釈などがあれこれ飛びだして、自説を楽しむ人々が多いようです。そこで、我が国の古代史をマジメに考えるならば、魏志倭人伝の記述議論から離れ、考古学的知見を冷静に見ることが重要になります。すると、ちょうとこの時期、奈良県の三輪山山麓を舞台に、今「ヤマト王権」と呼ばれる列島内有志連合によるセンターが相当な規模で成立し、その後急速に、前方後円墳の祭祀が、やはり三輪山山麓中心にできあがり、それが、徐々に、列島内に拡大していく様子が明瞭にわかります。再び邪馬台国との関係を考えると、邪馬台国の音がヤマト国に酷似していることに気づきます。魏志倭人伝のこの漢字は、もともと倭人の発音に漢字をあてただけのことであることを理解すれば、邪馬台国がヤマト国を指す文字であった可能性は極めて大です。また、道程記事のうちで、南と書かれているものを東に置き換えると、その位置が、ほぼ三輪山山麓と矛盾しなくなることが解ります。当時の中国の世界観は地球型ではなく長方形で、東には果てがあります。東夷の国々の記事の中で、その最果て国を記述しようとする際に、公文書上でさらに「東」と記述することに躊躇や疑問が生じた可能性を推測することが十分可能です。また、魏志倭人伝自体の、その当時3世紀半ばの北九州主要国と女王国邪馬台国との関係記述をみれば、そんな大国が、九州島の内にあったと考えることに無理があることは、常識的に思いつくことです。考古学的に、魏志倭人伝の時代に、大きな列島連合の中心となるような国内遺跡は、三輪山山麓以外にはみつかっていません。常識的に考えれば、おそらくとっくに大前提として次に進んで行っているはずの土台があいまいなままにされ、「未来永劫不明でしょう」などという言が平気でまかりとおる状況が残念でなりません。奈良県橿原ではないかと思料します。言うまでもなく、「神武東征」の終着地であり、天皇家初代の神武天皇が即位し、都を定めたところです。邪馬台国をシャーマニズム連合王権、後代に続くヤマト朝廷を古代的集権国家飛鳥、奈良時代への過渡期と定義した場合、時代はさらに遡りますがシナで言う殷と周秦漢帝国への過渡期がこれに当てはまります。つまり邪馬台国からヤマト王権への過渡期に、「殷周革命」の様な出来事があってもおかしくはないでしょう。そして祭政一致のシャーマン王権というのは、人間の生贄を大量に必要とします。質問者さんの添付の画像のような、のどかな情景だけではなく、祭祀のたびに人を殺し、シャーマンが死んだら100人単位で殉葬という名の生き埋め、殷王朝時代のシナだけではなく、邪馬台国でも同様であったと推測できます。ちなみに、殷周革命時に大活躍した太公望は羌族の出身、殷王朝の祭祀のため、何度も人狩りに遭った部族です。ひるがえって古代的集権国家で必要とされるのは、大量の労働力とそれを管理するためのやはり大量のテクノクラートです。現代にまで残る建造物だけでなく、日常利用される水利や灌漑、治水を考慮しても、想像は容易でしょう。しかし周王朝にしてもヤマト朝廷にしても「労働力が欲しかったから前王朝を滅ぼした」とは口が裂けても言えませんから笑、シナでは「易姓革命」で前王朝の徳が尽きた、ということにし、歴史も改ざんしまくり、殷王朝最後の紂王などボロクソに書かれることになりました。そしてこの「易姓革命」の危険さに気づいたのがヤマト朝廷と『記紀』の編者たちでした。前王朝の徳が尽きた、ということになると、易姓革命の都度、皆殺しジェノサイドが許容され、文字通り歴史は血で血を洗うものとなります。そこでヤマト朝廷ではなんと、邪馬台国を「なかったこと」にしてしまいました。さらに『記紀』の編者たちは、欠史八代をはじめ、伝承的、シャーマン的な色彩の強い初期の天皇に、その事績を包含してしまうのです。ここに現代まで残る天皇家の「万世一系」が完成しました。政権争いはあくまで臣下どもの私戦ということで、族滅されるまで争うことはほぼなくなりました。ここで質問に戻ります。木を隠すには森なのです。巨大な集落の住民を皆殺しにし、そこにさらに巨大な都市を造ってしまえば、そこに集落があったことさえ不明となります。後世に遺跡が発見されたとしても、都市の遺跡としか考えられないでしょう。すべては「空白の世紀」の中、類推に類推を重ねた牽強付会であることをご容赦くださいませ。魏志倭人伝を読めば「大陸~伊都国」までと「奴国~邪馬台国」までは文章の書き方が違います。これは引用した文章が違うということです。つまり大陸から伊都国までの行程に、起点はどこか分からないけれども邪馬台国への行き方が付け加えられているのです。魏志倭人伝は元々伊都国について書いたもので卑弥呼は伊都国の女王です。卑弥呼の墓は平原1号墓でよいと考えます。伊都国連合の領域は甕棺墓の分布から、東は福岡市、西は唐津市、南は筑後川あたりまでだと思います。領土型稲作の国ではなく貿易に注力した港市国家のようなイメージです。具体的には生口捕虜を奴隷にしたものを輸出して鉄を輸入するのが主な産業です。さて邪馬台国ですが、魏志倭人伝に記載されている以上、西暦240年頃にはそれなりに大きな国であったと思います。読み方からすればヤマト、つまり今の奈良県だと考えてよいでしょう。ヤマトの由来は三輪山の麓、?山麓?もしくは?山処?だと強く推測されます。つまり纏向遺跡は邪馬台国の有力な比定地です。魏志倭人伝に載っているものはだいたい見つかっているとするのが私の意見です。チコちゃんは知っています!「邪馬台国が確定しないのは、邪馬台国はなかったから~!」既存の九州説や畿内説は論理的?合理的でないと思っています。魏志倭人伝の記事を満足させて邪馬台国を確定することは不可能だと断言できます。邪馬台国を推定するには妄想を働かせるしかありません。邪馬台国論争が決着していないのは、既存の九州説?畿内説などに妄想が含まれているからです。「妄想」は「想像?推測?歴史ロマン」でも構いません本題に入る前の倭人伝の基礎知識です。1帯方郡から不弥国までの道程は里数距離で記されています。2次の投馬国?邪馬台国へは日数で記されています。3この日数は倭人から聞いた話です。4従って、「女王の都する所」も倭人から聞いた話です。5邪馬壱国邪馬台国の国名は1回しか記されていません。6ところが、伊都国は2回で重要な役割も記されています。7卑弥呼は鬼道きどうを事とし衆を惑わしていた。8往来の記事に登場する難升米?張政?壱与などは実在します。さて、魏志倭人伝には、邪馬壱国が1回、女王国が5回記されています。5回の女王国は女王の都とする場合と女王の統治範囲とする場合とが混在しています。また、女王国=邪馬壱国とは記されていません。女王国は伊都国で、邪馬台国や邪馬壱国が存在する必然性は無いと考えています。つまり邪馬台国はなかった。それでは、歴史ロマンを楽しみましょう。朝鮮半島では魏が公孫氏を滅ぼし帯方郡まで占領し更に韓への支配を強めていたのですから、倭人には魏の軍事力に対する脅威があったのです。倭人には女王国の場所を秘密にする理由があるのです。つまり、倭人達難升米等は女王国の場所を秘密にした。倭人達難升米等は女王国を海の彼方にすることで魏の使者を欺いているのです。其の余の傍国や国々の戸数二万余?五万余?七万余は倭国が大国で大率大きな軍隊が存在していると思わせているのです。更に、魏が敵対する呉の東に女王国が在ると思わせているのです。魏の使者も倭人伝の編者陳寿もこの倭人の策略に気づいていないのです。倭人は孫子の兵法「詭道きどう」を実践しているのです。伊都国までの道程記事は『魏略』にも書かれていて魏の使者の「見分」ですが、奴国~邪馬壱国~其の余の傍国の記述は倭人からの「見聞」で『魏略』には書かれていません。奴国?不弥国?投馬国?邪馬壱国の記述は倭人伝から削除できると考えます。伊都国の記事として倭人伝には「世有王皆統属女王国」『魏略』には「其国王皆属王女也」と記されています。其の国の王が女王に属しているのなら其の国つまり伊都国に王と女王とが居て女王の宮室があってよいのです。『魏略』には伊都国の戸数は「万余戸」と記されています。女王の居処とする場所は伊都国しかありません。女王国は伊都国です。自由に推理する歴史ロマンは実に楽しい邪馬壱国「女王之所都」、卑弥呼の墓「径百余歩」「殉葬者奴婢百余人」などは倭人達の作り話です。倭人伝によると、伊都国は女王国の北に在るのだから女王国=伊都国はあり得ないとの反論もあるでしょうが、その反論は伊都国が女王国の北に在ることを認めることですから畿内説は破綻します。倭人伝の記事を満足させて邪馬台国や女王国を確定することは不可能なのです。倭人伝には、女王に届ける文書や品物を伊都国で臨検して間違いのないようにすると記されています。荷物を確認するためには荷物の封泥封印を壊すのですから、伊都国と女王国が遠く離れていたら畿内大和の場合封泥を壊す場所は伊都国では無い筈ずです。女王国=伊都国なら問題ありません。倭人伝によると、魏の使者を欺くために伊都国から奴国?不弥国を経て水行二十日?水行十日?陸行一月で邪馬台国に至ると記されています。つまり邪馬台国へは片道2ヶ月往復4ヶ月以上になります。末盧国の「草木茂盛し行くに前人を見ず」の記事から郡使往来の時期は夏だったとされています。邪馬台国へは往復4ヶ月以上ですから戻りの時期は冬になります。玄界灘の冬の天候は曇天の日が多く不安定です。魏の使者郡使が邪馬台国まで往復すると玄界灘の渡海は天候の不安定な冬になりますので、郡使は邪馬台国へは行かずに伊都国で倭国の饗応を受けていたのです。倭人伝の往来記事によると「倭国に詣る」「張政は檄文を以て壱与に告諭した」と記されている。「邪馬台国に詣る」とは書かれていない。卑弥呼の記事に「男弟有りて国の統治を助ける」と記されている。伊都国の記事に「郡使が往来するとき常に駐まる所」と記される。これらの記事から郡使は邪馬台国には行っていない。伊都国に壱与が居て、男弟は倭国を統治する伊都国王で、郡使の饗応は伊都国で開かれたと推察できます。↑福岡県糸島市ホームページ<>に平原遺跡の1号墓について「この墓は弥生時代終末期約1800年前に造られたものです」と書かれています。2009年の1800年前は西暦209年ですが、墓が作られた「約1800年前」の許容差を±50年とすると墓が作られたのは西暦159年~259年になります。魏志倭人伝によると卑弥呼の死は西暦247年頃です。平原1号墓に葬られた人物は女性と考えられていますので女王卑弥呼の墓かもしれません。伊都国は糸島市あたりに在ったとされています。↑これには異論もあるでしょうが、先ず「約1800年前」については、平原1号墓から出土した鏡40面のうち中国製は前漢鏡1枚と後漢鏡1枚で中国製は重要ではありません。平原1号墓から出土した日本製の大型内行花文鏡国宝は非常に貴重なもので八咫鏡と解されていて伊勢神宮の八咫鏡と同型と解される。日本製の八咫鏡は3世紀以降に生産されて埋葬されたと解される。鏡の問題は面倒です。大正時代は、古墳から漢鏡が出ると古墳の築造を鏡の年代と同じにしました。その後、梅原末治は鏡の伝世に気づいた。中国から輸入した鏡は貴重品だから100年?200年にもわたって代々その家に伝え子孫によって埋葬される。また、新鋳の鏡が新品で輸入されるとは限りません。中国や朝鮮で伝世したものが日本に移動する場合もあります。弥生時代の遺跡の年代は約1800年前?約1900年前などと100年毎に区切って考えますので、許容差は±50年になります<女王国のその後>日本書紀で伊都国王の末裔と思われるのは筑紫国造磐井だけです。3世紀には豪族が支配する文化圏が九州北部?吉備?出雲?畿内に併存していて、孫子の兵法「詭道」を実践していた女王国伊都国は畿内の大和王権のように好戦的ではなく、4世紀には好戦的な大和王権が蝦夷を征討し九州にも支配地域を拡大して熊襲を征討し筑紫にも国造を置き九州を統属したと推察します。金印「漢委奴国王」は委奴国=伊都国とする説で良しとします。↑知恵袋のknn*の回答BAです。※女王国は伊都国で、邪馬台国はなかったと考えますので、邪馬台国の位置を論じる既存の邪馬台国九州説とは別物です。※『魏略』に書かれていない「見聞」記事を倭人伝から削除史料批判することで、「南」を「東」に改竄する必要も無いし「水行二十日水行十日陸行一月」も「其余傍国」も関係ありませんのでスッキリします。既存の九州説↓★安本美典★松本清張★榎一雄★橋本増吉★井上光貞★新井白石★他既存の畿内説↓◆寺沢薫◆白石太一郎◆都出比呂志◆大塚初重◆岸本直文◆渡邉義浩「偉い先生がこういったから正しい」と思う妄信するのではなく、先ずは疑問を持つことです。質問者様は知恵袋の回答に疑問を持って下さい。疑問を持つためのヒントを以下に↓返信します。未来永劫つきませんなぜかというと、予想があたっていても証拠がないので断言できないというより邪馬台国がココっという証拠がないんです私達が邪馬台国と思ってるところが実はウミ台国だったりすることがあるのが考古学なので邪馬台国って、どこにあったのかは判明していません。おそらくこの先も断定することはできないんじゃないでしょうか。そもそも邪馬台国というのは中国側の史書にしか登場しません。邪馬台国という名称も中国人が聞き取った音を中国表記に音写したものなので、日本のとある遺跡から「ここは邪馬台国」と書かれた表札が出てくるなんてことはありません。邪馬台国への道のりも中国側の史書に書かれておらず、それは読み方次第で北九州、近畿、はてはハワイ付近まで解釈できます。北九州や近畿にはそれらしい古墳や遺跡がたくさんあり、主張次第で何とでも言えてしまう状況です。まず決定的に「ここは邪馬台国」という表札が出ることはないので結論を出すことはできないでしょうね。九州のどこかと奈良県桜井市で争ってる時点で決着が付いてるかと。決定的な証拠が出ていないので未だに分かっていませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です